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小学校での出来事を娘から聞く時、気をつけなければならないことがある。

片方からしか話を聞いていないということを忘れてはならない。

自分の子供の話だから、つい感情的になってしまうのでそれを抑えなければならない。

激昂して小学校に話に行ったら実は、、なんてことがあるといけないのでなるべく抑えて話を聞いている。

【私的道徳】それは本当に悪だけなのか、価値観と可能性の話を娘にしている

それはもしかしたら娘にはかわいそうなことなのかもしれないとたまに思うのだけど、私はついいろいろな人やその立場や考え方を考慮して話を聞いてしまう。

共感は大事だと思うけれど、いつも流されていては振り回されるだけだし、共感性がなさすぎるのも困ったものだと思うこともある。

忍耐力の度合いも人それぞれなので、娘の忍耐力とお友達の忍耐力は違う。

担任の先生にだって自分の信じた教育方法があるのだろうし、それは私が思っているそれと違っても仕方ないのではないかと思ったりしてしまう。

ことを急ぎすぎてもあまり良くないこともあるし、子供同士で解決できたり考えたりする機会を大人が奪ってもいけない

結構悩ましい問題なんである。

というのも、娘が何か小学校で泣いてくる時があり、聞けばいつも同じ男子が娘にちょっかいを出してくるようなのだ。

多分その男子は娘のことが好きみたいなんだ、それ自体は別に良いのだけど、好きな子に嫌なことを言ったりしてしまう典型なんだな。

ちょっかいの出し方がいかにも小学生の男子っぽい。しかもクラスでもかなりのやんちゃぶりみたいだ。

娘にとっては幼稚園でなかった初めての経験。まだ経験値が年齢なりにしかないので気にしないようにとは言っても、色んな励ましをしても、娘にとって試練の時なんだろうと思う。

私の悪い癖で、娘の困った部分もよく知っているので、その泣き虫な部分は年中の時の感じを思い出してしまったりして、客観的に見れば娘も忍耐力やスルー力に欠ける部分もあるので、そのことを考えて諭してしまったりする。

娘にはなかなか難しいことだとはわかっても、流せることなら流していったほうが、そういう癖をつけていったほうが、いちいち会社等ですぐ泣く人にならないと思ったりしながら、まだ早いと思うながらついそういうことまで考えて教えてしまう。

娘の味方であることは伝えている。娘が日常の困った話をしやすいように、ダメだしばかりはしていけないと思っている。そうなってしまうこともあるのだけど。

私が娘の話を聞く時に気をつけているのは、娘の気持ちを受け止めつつも、それぞれの立場の話をすること。

精神の成長具合も皆違うんだってこと。自分と一緒じゃないとダメってことはないこと。

例えば、すごくやんちゃな子がいて、共感力も低くてどんなに注意されても動じない気持ちの持ち主だったとして、教師にとっては非常にやりにくいと思うけど、教師にとってはダメで、クラスの中でも浮いていたとして、それが彼という人間性の全てが✖かというとそうではないんだよ、と話したりする。

それが良い面に働くと勇敢な性格で人がやれないと思ったこともできると信じて達成できる人になるかもしれない、とか。

そういう子もうまい導き方があるのだと思うし、小学校で先生に叱られて打たれていくことは必要な経験だと思うけど、ある価値観から見てダメでもその人の全てを否定してはいけないんだってことを私は伝えている。

多分小学生には早すぎると思う。でも積み重ねは大事だ。

物事を片側からしか見ないままで決めつけてしまうのは勿体無い。

人は変わることだってできる、気持ちだってあくまでも流動的なものだ。

親が一方的にダメな子だねとか、あんな子!みたいな気持ちで子供に話すことは、その価値観を子供に与えてしまうことになる。

子供にとって親は絶対だから、これまたなかなか難しいのだ。

運動ができないからダメな子、字が汚いからダメな子、先生の言うことが聞けないからダメな子、お友達にちょっかいを出すからダメな子、じゃなくて、

その子の良い部分を探してあげること。

友達に積極的に関わることは悪いことじゃないけど、関わり方が下手ならそれを教えていけばいい

あなたのここは良いところだけど、もっとこうしたらいいよということを。

大人はそうやって子供を導けるんじゃないかなって思ったりする。

もちろんそれを今娘にやらせようとは思っていないし、娘が困った気持ちも大事にしながら、親がうまく気持ちを流してやること、これは本当に難しいことだと思ったりするのだけど。

先生という職業は大変だと思う。でも小学生、まだまだ脳は柔らかい。物事を多面的に考える力を付けると、皆違うんだ、それでいいんだということを考えるきっかけになるんじゃないかと思う。

ちなみに私は金子みすずさんのことはよく知らないが、あの有名な言葉は、自分が皆とは違うんだという劣等感や繊細な気持ちを持っていた人だから、彼女自身を励ますためにも書く必要があったのではないかと勝手に思っている。

違いを跳ね除けるんじゃなくて、そばに立ってみること、そこからもっと新たな精神世界が待っている、子供にもそういうことをもっと知ってもらいたいと思う。

価値観や可能性はひとつじゃない、いつも公平に見てみること、考えてみること。

偏っていることは悪くなくてそれも個性の一つであること。でも考えることを忘れないこと。その上で嫌だ、不快だ、という気持ちがあってもそれはそれで良いんだよってこと。

そんな感じのことをよく考えているし、娘に話したりする。