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子供を立派に育てる、の立派ってなんだろう。

発達障害児の育児の難しさを私は日々実感している。
立派に育てなければならないという親としての緊張感と、この子育てでのバランスというのは非常にさじ加減が難しい。

というのも、発達障害の中に要求を通す拘り、それが不安によるものからだったり、衝動からだったりするのだが、その強さが健常児より異常に強いために、通常の指示では通りにくいという事象が発生し、親はそのために苦悩するからだ。それもかなり磨り減ってしまうのだ。

発達障害児の子育ての難しさ、親の悩みはスッキリ解決することはない

親の指示が通らないということは、言うことを聞いて欲しい側からすると、厳しい接し方になってくるし、それでも効かぬとなると、虐待かというほどの怒りのエネルギーになってくることが多い。自分もそういうことを日々経験しているので、日常接している方々の苦悩は自分のことのようである。

それで、共同に生活していくに当たって指示を聞いてもらうには工夫が必要なのだとなってくるのだけど、それも毎日の繰り返しの中で、親の方も親の事情があり、子供にばかり合わせていられないこともあり、反省し自分のやり方を変えようと努力しても、振り出しに戻ったかのような怒りに包まれてしまうことだって多々ある。

その時、厄介なことに、この子供達は結構神経が繊細にできているもので、こちらの意図したようには全然分かってくれないのに、怒りを浴びた結果、神経症的な症状が強く出て、発達障害の症状プラスその病、二次障害の方に気を配らなくてはならなくなり、ますます親は自信をなくしていくことになる。二重の苦しみだ。親の方が頑張っていても、自分の家庭だけで生活することはないので、結局外からの影響で二次障害になることもある。

対峙している親や外界に対して極めて鈍感であり、究極に繊細という難しいものを併せ持っている事実が、この発達障害児の子育てを困難なものにさせていると思う。

親の方も、これは私にも言えるのだが、自分も発達障害故になかなか感情を抑えられないといったことも出てきたり、子供がかわいそうという理由で言いなりになってしまった結果、親が子の言いなりになり、子の要求を全て叶えて自分が病んでしまう例もあったりする。

一度病んでしまうとそこから自力で這い出すのは難しいのと、そういったパターンができてしまうとそれに拘りが出てきてしまうので、家族ごとその一番強い子供の要求をのんで生活するといった具合になる。具体的には、母は食事中ここで立って動いてはならないとか、こうする時は音を絶対立ててはいけないとか、そういう個人それぞれの生活があることを無視した不安からくる要求に、パニックや癇癪を起こされないために自分を殺しそこに合わせていくといったことで極端な話なってくる。子供は子供で、自分の要求が通ったということがひとつのパターンとなり、より強く主張していくことで自分も家族もギリギリまで追い詰めていくことになる、そうなると付き合う方も心身ともに病んできて、正しい判断ができにくくなり、苦しいのにそこから抜けられないといったことが出てくる。

かと言って、親側の要求を強く出してわかってもらおうとして厳しくした結果、子供の方に神経からくる病状が出てきたり、例えばチックや吃音や食欲不振、鬱など、個人によって様々だ。

叱るだけではなくそばに寄り添う姿勢を見せていても何か悪いことの重なり、きっかけによって誘発されることもあり、親は自信喪失する。この子育ての難しさを常に頭で葛藤することとなる。

私が娘を育てていて思うのはとにかく、欲望への抑えがきかないということ。例えば大好きなお菓子が目の前にあれば、ずっと食べ続けてしまう、他のことをしていても意識がお菓子にいっているということ、これは依存性みたいなものの強さだと思うのだけど、他の子がこれ以上やめようねと声をかけて、娘が食べていても素直にやめることができるのに対して、娘はそれを見てもやめないし、まだ持っているお菓子があるのならばそれもあるだけ食べようとしてしまう。友達はお菓子が見えても我慢ができるが、娘は一度知ってしまうとそこへの要求が人の2倍以上あると思う。(このエネルギーは例えばやりたい仕事に向くと有効に働くと思うけれど、うまくはまればの話になってきそうだ。)
こちらが突っぱねようとしても異常に執着してくるので、それを振り払うだけでもイライラし、精神の力をかなり消耗することになる。

そういったことが繰り返し細かく日常で起こるので、こちらは普通に考えていてもそれが通用しないことで、精神消耗を繰り返し、怒りを忘れられたりさっぱり気分転換できるといったことがなかなかできなくなってくる。ここに加え、睡眠障害等を持っていると就寝の時間まで奪われ、心身共にリフレッシュできないまま、日常を過ごすことになり、親の精神肉体的負担というものはもっと大きくなってくる。

確かに、本などで勉強すれば、パニックのことを事前に予測して余裕を持つこととか、声掛けの仕方等、どうすればいいのかという対応の工夫などはあるけれど、そんなに理想通りにいかないのが発達障害の育児ではないか。

この育児で気がついたのは、これだけ欲望への抑えが効かないとなると、大人になり太るっていうことはこの子にとって容易なことだと思ったし、一人で暮らすようになれば、所有欲のために借金だってあとさきが考えずにする可能性もある。給料をもらってもその場で使い切ってしまうかもしれない。それが、性欲に出てしまうと犯罪になるのではないかと心配するお母さんもいるだろうし、この育児の悩みの深さはなかなか癒えることがない。教えていくということが大変であるということは、自分でかなり痛い目にあって失敗しないと自分で実感できないわからないということになり、それも親としては放っておくことができない気持ちになる。

例えば食事を出しても何でも美味しく食べるっていうことが難しかったりするので、じゃあ好きなもの食べさせればいいのかといえば、それは肥満や栄養の偏りにもなり真面目であればあるほどそんなに簡単に諦めきれない。そうではないか、どうでも良くないから、頑張っているのであって、頑張っているのは母の愛だから。だけどその愛だけではこの子達は出された食事を美味しく食べないのだ。そのことが作っている者としては本当に悲しいことだ、ご飯がない国の人のことを考えると、この当たり前の幸せがわからないのが辛いし、わからせなくしたのは自分ではないかという不安。不甲斐なさ、自分が育てない方が全てうまく行く気がしてくるのだ。何かこうなって欲しくない、わかって欲しい、だけどうまくいかない、そこに怒りを感じて感情的になってしまう。こんな気持ちは綺麗事では済まされないのだ。あらゆる本に載っていることが、同じ世界にいながらまるで別世界のように感じてくるのだ。自分のこの苦しい感覚だけが、異常なのだと自分を更に苦しめる。これは私も発達障害だからなのかと思い自分を更に責める。発達障害を知らなければ知らないで苦しみ、知れば知ったことで苦しみもあるわけだ。

叱りすぎてもダメだし、叱らなすぎてもダメだし、現実的に難しいのだが叱るが怒りになってはいけないとのことだし。私は見れば見るほど、娘に何か言ってしまいそうで、極力もう娘は娘の友達の世界にいる時は干渉しないし、はっきり言って放任主義みたいになっている。ある程度自由を許さないと娘も苦しいと思うからだ、それは娘という個を認めるということで、最低限の道路での飛び出し、順番を守る、友達といて危ないことをしないとかそういったことが守れるようになったからこその放任だ。

家では共同の生活である限り、娘が王様になることはならないと思っているので、何度も言ってもわからない時は厳しくなることが多い。甘えてくる時は出来るだけ甘えさせるし、遊べる時は思いっきり一緒に遊ぶようにはしている。でもそれでも限界だと思ってしまうことはやっぱりある。これが嘘じゃない気持ちだ。だって、本当にそんな日だってあるじゃない。何か工夫していつも幸せにうまくいってますっていうのは本当に羨ましい限りで、自分がうまくいかないと感じるのは自分の力不足なんでしょうとしか思えない。

結局、多少の諦めっていうのが良いということもあるのだと学んだ。自分についても娘についても。ただ、その諦めが他人に関わることや犯罪だとそうは言っていられない。そこはしっかり親として見極めていかないといけない。見ないふりではいけないこともあるのだ。

この発達障害児の子育てで、私は「スッキリ解決」できないことの方が多いと感じる。すぐ解決できないことに、悲しみも苦しみも感じるが、結局「ユックリ緩和」していくことを目指すしかないのだと自分に言い聞かせる。