_ _

今更!?なんだが、小学生になって初めての運動会がどうだったか書いておかねば。

正直、幼稚園と比べたら私ももう気張る気持ちはなくなりました。

一番前で観たいとか、朝並ばなくては!みたいなのも、もちろん並んでいる方もたくさんいたのだと思うけど、私は特になかった。一番後ろでもいいや的なノリです。

幼稚園の時に去年とその前、小学校の運動会を娘と二人で見学にきていた。

今更だけど、行く予定の小学校にお子さんと見学にいくとわずか15分でもなんとなく雰囲気が伝わるから是非おすすめ。

初めての場所に緊張するタイプの子にも、ちょくちょく見学に行っておくと、少し場所に慣れる予習になるというか、心構えを与えるのにも有りかもと思う。

まあ、幼稚園だと3学年、小学校だと6学年だから、単純に人が多い。同じ体操着を着てズラリと並ぶとはっきり行って遠くからでは全く見分けがつかない。

六年生って本当に大人並みになるのね。

一年生が一番小さいけど、この六年であんなに大きくなると思うとやはりこの六年は色んな意味でデカイ。そう思った。

小学生はもう自分のちゃんとした記憶も持っているから、娘もいつかそうなるだろうな。だからこそ、言葉かけも今からより意識していくことが大事だと思う。

7歳までの私のこわさを娘は覚えていないことの方が多い。

特に3歳半までの時間は、娘の行動も無意識だったようだし(点・のようなもの、・・・その時その時であり、まだ点線にはならない)、
それにより私に激しく怒られたことも、今の娘はほぼ覚えていなくて、

5、6歳、この辺りは記憶半々(-・・一・-みたいなイメージ)、

7歳以降、これは記憶を支配して確実に身になる。まだたまに・になるけど、一-一一・一-こんな感じかな。

いつか記憶が切れない線になるんだろうな。

そして加齢でまたどこかで折り返していつか・・・になるのかなと。私なんて既に-一一・一-このレベルが日常だと多々なような。
どこに意識をあわせた記号になるかはわからないけど、どこかが死ぬまで一一一の人もいるかもしれないし、、個人差かな。ただその場合とても特殊な才能があるんだと思う。きっと生きにくいと思う。

忘れることができるのは幸せなことでもあるのよね。

ただ、・・・も遠い遠い空から見たら「ない」ことだし、ある程度の距離からなら一一一って・じゃなくて「線がある」ことなのかもしれない。

きっちりした線になっても宇宙から見たらなんのしるしもなく、ただの青い星かもしれない。

私はこういう例え大好きなんだけど、ちょっと哲学的過ぎたか。イメージね、そういうことっていっぱいあると思っていて。

娘について児童精神科医師によると、7歳で小3と話している感じと言っておられたので、持って生まれた部分はある程度あるとしても、小3の9、10歳になる前くらいは親もとくに言葉のかけかたに気をつけていくと自分にも良い影響があるのだと思う。

私自身で考えても、六年生になる頃には大人の考えが自分の芯まで行き届くことはなかなかなかった。あった時は、非常時やギャップからの学びだったりする程度で人格はある程度出来上がっていたように感じる。

(しかし、私は子供の時からあまり人の考え方に影響されてぐらぐらするタイプでないので、人それぞれなところもあるね。娘は人に影響を受けやすいところが星的にもあるのがわかるので、私の影響は気をつけておかないとそのまま響いてしまうはず)

運動会で全校生徒並ぶと、とてもこの6年間は大事な時なんだなあと感じる。

応援団とか懐かしくて、見ごたえがあったなあ。

成長と共に演技も複雑になるのが通して観るとわかって、六年生の演技なんてやっぱり涙腺が、、ってこれ、年少の時もそんなことを書いていたような?娘もいつかあんなに大きくなってしまうのね。私はもっとおばちゃんになるのね。

娘は、実はとある代表に選ばれたのだが、その大役見事にこなしていて安心した。

人前に立つのはやはり嫌いじゃないらしい。私はハラハラするが、そういや私も幼稚園では私の意志関係なく、結局色々前に出ているタイプだったし、それを見て後からママカッコ良かったと言ってくれたりしていたなと、後から思い返した。

娘にそういう人前に出る立場を求めたいがために、手本になりたくてやっていたのでは決してないが(できたら目立ってほしくないと思ってしまうのはなんでなの)、本人がそうありたい人なんで親としては応援するしかない。ドキドキしたが、本当に良く頑張っていた。

踊りも表現力ありでノリノリだったし、かけっこはビリでしたが、まあ良し。

でも本人は泣きこそしなくなった(この成長が本当に嬉しいんだが!!)が相当悔しげで。
普段練習もしないのに何故そんなに悔しいのか?と疑問に思う私。ある意味すごいと思う、その負けず嫌い。変わらないなあ。

今年の悔しさを来年以降のかけっこに繋ぐのか大いに期待?

一年生は皆まだかわいらしいから、娘が演技の待機中等に多少落ち着きなく見えて気になる時もあったが、概ね良かった!成長したな!と思えた運動会でした。

お弁当作りはすごく久しぶりにやって、ああ私、幼稚園の頃毎日ではないにしろ頑張ってたんだなって思った。毎日作っている人本当にすごいし偉い。

最近は娘も、今の賑やかなクラスに慣れてきたようだし、私も以前一学期に参観日に行って大丈夫か?と思ったけど、その子たちのことを面白いなかわいいな、らしいな、と思って私は楽しく感じられるようになってきました。

ただ、今後こうした学級の有り方は変わっていけばいいなと思う。支援の「真ん中」というのは、色んな気持ちになるものだ。まだ一年生、これからが勝負になるんだと思う。明るさがあるといい。うちの娘もだが、すれてしまわないように、そう願っている。

先生は苦労されているかと思いますが、賑やかなクラスなりに二学期になってまとまってきた感じがします。

まだまだ抱っこが大好きだけど、お友達との中に自分の居場所、積極的に作っていて、少し昔が懐かしくなる。

クラスの女の子とも今のところうまくやれているようだ。すごく積極的に自分からお友達を誘うタイプ。公園やら学童みたいな広場や児童館、子供同士の関わりが増えたなと。

もう友達との中のことを幼児の時のように手取り足取りできないから、無意識の6歳までの積み重ねはどんなに後悔する対応があっても大事なことなんだと思う。

そこからは意識があるから、記憶にも刻まれやすい。私からの声かけで、無意識の時の娘からもらう声かけがちょっと変わるんだと思って、できるときだけでもあたたかい言葉をつかっていきたいなと改めて思った。

それは娘のためであり、私のためにもなることだから。

完璧などあるわけないので、人間らしく揺らいでいいけど、間違うな!というのでなく、間違う時があったらそのあとどうするのか、反省後はどうしていくのか、

それを娘は私を見て感じて記憶するということを「意識」していきたいなと初めての小学校運動会を見て思った。