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近所の店から紙類が消えた。

デマが原因でも、何故そのようなデマに皆が賛同というか、買わねばならないと行動しようとしたのかを考える。

それは、人々の心が今不安だからだ。

トイレットペーパーがなくなる不安(もちろんないと困る)が一番ではなく、この新しいウイルスの未知の部分と、隠されているのではないかという疑心暗鬼と、これからの自分たちの近い未来がどうなるのだろうかという不安、それらが複合的に重なっていて、普段なら気にしないような、笑い飛ばして馬鹿にするようなこと、トイレットペーパーやティッシュがなくなるかもしれないと言う噂に、それらがなくなっていく棚に、不安が倍増していった末に起こったことだと思うのだ。

前提として、その前にマスクが売り切れで買えない、品薄であることもあるだろう。

実際に売られていないのだから、気にしていなかった人も生活になくてはならないものだと、どうにかしなければと思うのだ。

デマとは言えないようなデマが本当に成就する時、多くの人々の中には大きな不安がある。

流した人だけが悪いのかと考えてみれば、確かに悪いところはあるかもしれないが、本当にそれが原因でしたで全て解決するのかなと思う。

もちろん煽らないこと、冷静であることは大事だとして、その奥に潜む不安を取り除かないことには、大なり小なり延々と繰り返す気がしている。

別に紙類でなくてもなんでも良かったのだ。
今とにかく人々は、今まで聞き流せていたような話をあれこれ膨らます。
それは何故か。

信じられるべきところを信用できなくなっているからに違いないのだ。

本来ならどこを一番信じられる、信用できると思わないといけなかったのかなと考えてみる。

そこがきちんと信用できる存在ならば、このような不安は蔓延しただろうか。連鎖するだろうか。

嘘に嘘を重ねているとか、うやむやにするとか、最初に言っていたことと違うとか、伝えられる言葉と伝わってくる現実の深刻度のギャップなどを感じれば感じるほど、人の不安は増すものだ。

たとえば専業主婦だとしたら、夫のポケットに女性用のハンカチが入っていたり、帰る度に、洗濯物を洗おうとする度に、嗅いだことのないボディーソープの香りがするとか、なんかそういう勘みたいなものが働いたりすると、アレ?これはもしかして?と思ったりするだろう。

今ない人だって、もしそんなことが重なってあったら、全く鈍感ではいられないだろうと思う。

そういう時に、これは本当だ、オレの言うことを信じてくれと言われても、ますます疑ってしまうというのがあるのではないだろうか?

少なくとも、普段からなんだかあやしいなあと思っている時ならば、信じてくれと言われて、ハイと言ったとしても、どこかではあやしい、本当なのか?と思うだろう。

そんな時に、おたくの旦那さんに似た人をこの前どこどこで見かけたよ、なんて言われたら、それが実際別人だったとしても、え!?何してた?って、不安が不安を呼ぶだろう。

本人に確認して、そこには行っていない、人違いだろうと言われても、心から信じられるかどうかは普段の積み重ねなのだと思う。

人の噂の方が信用できるかもしれないような関係というのは、そういう関係に「なってしまっている」というのが、一番の問題なのではないだろうか。

わかりやすいから夫婦の話にしてみたが、別に私が浮気されているというカミングアウトではなく、それは会社だって世の中だって、だいたいそのように疑心暗鬼や不安に思う人の感じ方というのは似ているのではないかなと思う。

紙類の有り難さ、我が家もなくなるかもしれないと思うと、ティッシュってなんて素晴らしいものなのかと思う。
このまま買えないとなると、我が家にもともとあった少しの備蓄もなくなる日が来るかもしれず、「もったいない」という気持ちが生まれてくる。
マスクもそうだ。つい数ヶ月前までは店頭からなくなるなんて思わなかったのだから。

「もったいない」で思い出すのは、どうしてものび太くんだ。
「あの時残したラーメンのおつゆ、飲んでおけば良かったー!」みたいな、あの時残したあの食べ物、と振り返る場面があった気がするのだ。

お腹が空いて、食べ物がなくなる。すると、今までの自分はなんて贅沢な暮らしをしていたのかと思うのだ。

あの時ののび太くんは死んだわけでもなかったし、その後はまた同じようにラーメンの汁を残す生活を送るだろう。

私のこの「もったいない」も今のうちだけであると思いたいし、日常でこんなに有難いものを使えているというよろこびを、実感して生きたいなあと思っている毎日だ。

昨日あたりからはうちの近所でもティッシュが買えるようになってきたので、良かったなあ、嬉しいなあと心から思った。

散歩で見つけた時はウオオオと思ってしまったし、1つだけ買うのだけど、私買っていいのかしら、とドキドキしてしまった。

生活の中にあるものは全て、色々な人のあらゆる「仕事」がたっぷり詰まっている有難いものなのだ。

ところで、うちの娘はこの間から休校になり、ここから教わるはずだった授業を家でやらねばならないので、私が教えたりしているのだが、この時期の子供が習うことはどうでも良いものはほとんどなく、算数の内容も九九だったり、箱の形(立方体)だったり、これは知っておかねば今後大変だなあと思うものばかりだ。

私も必死で、わかりやすく教えるには、娘に響くにはどうしたら良いのかと試行錯誤してしまう。

教えるうちにわかるのは、自分の教え方の性質だ。

つい熱く、いつも本気になってしまうので、やんわりぼんやり優しく儚げに教えることには向いていない。
言葉はきついし声もでかいし、厳しく怖いかもしれない。

その中にはユーモアも入れて笑わせることもするし、できた時にはちゃんと大きな声でほめている。

だけど、教えるというのには、教えられる側の気持ちもあり、それが100%絶対に良い、なんてことはないのだと思った。

ある人には厳しく、ある人には物足りない。
ある人には頼もしく、ある人には頼りないと映る。

それが相性というものなのだろうから、親が先生をする、メリットデメリットは色々あるだろう。

8歳に専門用語で教えても全く理解できない。

知らないことを前提に説明するというのは、わかっている側からしてみたら、なんでそんなこともわからないのかと思うのだけど、そこをわかりやすく、なるべくわかるように伝える努力をしないといけないのだなと実感する。

そして、ハッとしたのは、ここからは先生に教えてもらっていないと、娘がちゃんとわかっていたこと。

わからない、これは教えてもらっていないし、知らないのだということがちゃんとわかっている。
それって素晴らしいことだと思えたのだ。

問題なのは、どこまで知っていて、どこから知らないのかが全くわからなくなること。
それは授業をわかって受けていたのか、いなかったのか、に関わる部分だからだ。

このテストのここからは自分はわからない、そのことがわかっていることは良いことだ。

学期末のテストの感想を書く部分で、娘が特に感じたことがなさそうにしていて思った。

こちらから見ていて、数時間の中にもたくさんハッとわかっているなという時があったはずなのに、自分では大したことではなかったと思うのだということと、それを文章にする能力というのは別ものなんだということ。

なんでもなかったと思うことの中に、閃く瞬間はいくつもあったのに、そのことを意識できない、自分の感動がわからないなんて、とても「もったいない」ことだ。

それは、非常時にティッシュがなくなっても、有難いと思えず、ティッシュがあること自体を当然だと思うことに似ている。

人だってそうだ。
どんな人にも良いところがあるのに、それをなんにもないなと思うということに似ている。

当然だと思うということは、軽視に繋がりやすいのだ。

感謝もできなくなるし、しなくなる。

それこそが「もったいないこと」だ。

もっと感じる心を育てないと、大切なことをどんどん忘れてしまう。見つけることすらしなくなる。

それを教えていくこと、気付かせていくことの難しさもあるだろう。

机上の勉強ができることももちろん大切だけど、そういう、なんでもないと思われがちな「気付き」こそ、もっと大切にして生きていった方が良いのではないかな、と。

娘にはそういう「感性」をもっと磨いていって欲しいなと思う。

私はこれからも、できたらうるさくならないように、熱くなりすぎないように、このことを娘に問いかけ続けたいと思う。