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7歳娘、ついに自我が本格的に芽生え、子供の絵を卒業する日が来たようだ。

いや、まだまだ子供の絵なんだけど。

私はなるべく絵を教えたくなかった。一緒に描くことはたまにしてきたけど、意識して「教えて」こなかった。

何故なら、あの幼児だから描ける絵がすごく好きだったから。

子供の絵を7歳娘の意思で卒業していく日が来た。成長の喜びと寂しさ。子供ならではの絵は素晴らしい。

出来上がった概念なんてぶっ飛ばす勢いのあるあの絵は、生きている中のほんの数年しかない奇跡みたいなものなんだ。

生まれつき視覚と手先が繋がっているような子供はそれはそれで素敵だ、能力だと思う。

だけど娘は違ったので、私は彼女の絵がそのままで素敵だと思っていたし、芸術っていうのは自由なんだってことをずっと言ってきた。

塗り絵なんかも、きちっと本物っぽく同じ色を塗る楽しみもあるけど、別に好きに塗って良いのだとずっと言ってきた。

その際、勘違いしないように、幼稚園で先生が模写のような、本物そっくりに描いてくださいっていう授業の時はそれは先生の言う通りにするんだよって伝えてきたけど、自由なお絵描きや好きに塗ってくださいって時は、別にいろんな色でいいんだよって言ってきた。

幼児の段階でも茎は黄緑じゃないとおかしいんだと主張する子がいたりするんだけど、きちっと育てられているんだなと思う反面、その子に自由を与えた時に、のびのび概念に囚われず塗ることができるのかって思う時がある。

制限が当たり前だとそこから出る時はなかなか難しいものだし、自分自身を見失うことにもなる。

そして、世界の自然の植物は皆黄緑の茎じゃないし、色んな色があるのをその子は知らない。

いかにこれが正しいってことを勝手に植え付けられていることか。

自然にあるものっていうのは人間の想像なんか遥かに超えたところにある。子供の感覚もまた、大人の概念を遥かに超えたところにある。

リンゴといえば赤だと思っているかもしれないが、リンゴが腐るまでの間には赤に見える部分にも実に色々な色があるもので、あながちこの色はこうに決まっている!っていう思い込みがない方が面白い絵が描けたりする。

少なくとも私は当たり前をどこかで斜めに見ているところがある。

人はいつか大人になってしまうので、当たり前なんて子供に求めていないのだと思う。

人間として生きていくにはある程度のルールは求められる、そうしつけられていく。せめて芸術の中くらい、自由であって欲しいのだ。

当たり前なんてつまらない、想定外の良さっていうのがあって、まだテクニックなんてなくていい、一番自由で一番斬新、その時期を私は大事にしたいと思ってきたんだ。

顔から手足が出る頭足人の絵から、関節とか骨の存在を感じさせなく長さも適当な子供の自由な絵、大人になったらそれが「おかしい」と思ってしまう。恥ずかしくなってくる。

だから敢えて手取り足取り教えずに、娘なりの上達をそのまま見守ってきた。

でもついにこの時が来ちゃったな。

小学校の自由時間に女の子同士で絵の対決?みたいなことをして遊んだらしく、その時皆が娘以外の子の方を良いと言って、悔しかったと言ってきたのだ。

漫画の女の子の絵みたいな、お姫様の絵みたいな、そういうのだったんだと思ったんだけど、見せてもらったら、私は好きだけど、確かにもっとうまい子はいるんだろうなって思った。

で、娘は負けず嫌いなので、負けちゃったーまーいっかってのほほんとなれないタイプだから、その落ち込みには流石に私も同情的になってしまい、人物を描く時の簡単なコツみたいなものを教えたんだ。

そしたら、もうその場からその前に休み時間に描いていた絵とは変わってしまった。並べたら同じ人が描いたものとは思えないような感じに。

娘自身もびっくりしていて、上達が目に見えるって誰だって嬉しいもんで、時間差でまた教えて欲しがったので更に私なりのコツと手本を描いてやったら、上達した絵からもっと上達していた。

子供は吸収がはやいな。

模写ではないから、あくまでも女の子受けする漫画っぽいアニメっぽいお姫様っぽいあれだけど。(お姫様といえば私は高橋真琴さん!)

肩、へそ、肘、膝の位置を意識したり、紙との全身のバランスをみて、薄く補助線を描かせ、補助線がうまくいけば強く輪郭線を描いていくことを意識すればだいぶ変わる。

だいぶ小学生っぽい絵になってしまった。

娘は自分のオリジナルの素敵女の子の絵に塗り絵ができることにめちゃくちゃ喜んでいた。

私も嬉しかったけど、これでもうかつての子供っぽい絵が私の教えが入った絵に変わってしまうっていう、寂しさのようなものがどこかある。

いつかはこうなるってわかっていたけど、成長は嬉しく、切ないね。レモンキャンディの砂糖なし(そんなのあるの?)の味だった。