最近色々考えさせられることがある。
私と夫だけが知っているとはいえ、娘も軽度自閉症スペクトラム、アスペルガーとわかったところだ。
私も知らないだけで発達障害かもしれないし、途中から人格障害になったかもしれないし。
私から見たら、「普通」の人ってどれくらいいるの?って思う。
けれど、思うのはそういう普通な人、健常者っていうのか、発達障害者、身体障害者でも皆共存して生きていて、生かされているということ。
感謝できない、気がつけない障害が仮にあっても、支える立場、周りにいる家族の自分としては、そこをいつも思っていたいと思う。
社会への感謝、周りの人達への感謝。
それを忘れたらいけないと思う。
今ここに自分がいるのは過去に自分と接してくれた家族や友達やその他色々な人のおかげだし、漠然として良くわからなくても社会の中で守られて生きてきたと思う。
そのことに有難いって思いたい。別に言わないけど、言う機会もないけど、そう思っている。
障害がある人の気持ちの中に、差別を非常に敏感に意識する方々がいる。
あんまり差別差別ばかり言われるとさわりたくなくなるのは私だけか。
知れば知るほど差別差別と言われ、手伝うことも差別と言われ。
健常者同士でも手伝うことなんてありとあらゆる場面普通に存在するものなのに、差別と勘違いされる。
差別と思われる。
皆が皆そうじゃないと思いたい。
私は現実、スーパーで自分の通る狭い通路に落ちた買い物かごを拾ってあげようとしただけなのに、杖で買い物かごを抑えつけられ、私がしゃがんだ状態で見上げると高圧的に、結構です!と言われたことがある。
落ちた買い物かごのスペースしか通る道はなく、私はまたいで、すみませんと言って通り過ぎた。
そこに落ちていたから拾おうとしただけで、別に親切にしてやろうとか意識していなかったが。
その方にとっては別の見え方だったのだろう。
体に障害があるから拾ってあげた、と思ったのだろう。
拾ってもらう、ということが差別だと感じたのだろう。
たまたま目の前で落ちたものを拾ってもらう、それだけのこと、健常者でも普通に行われることだが。
普通に、ありがとう、では済まされないことなのかな、と思った。
それ以来、例え身体障害者で動きが大変そうだと思っても、手伝うことは差別なのか、と考えさせられた。
色々な人がいるけれど、私は心の中が差別ばかり意識して感謝をできないような人にはなりたくない。
いつだって誰だって、自分ひとりで生きていけない、社会の枠組みの中で生かされて、誰と話さなくてもこの世界で共存して生きている。
不満なんて、皆それぞれ抱えて生きている。
だからこそ感謝は必要だよなって思っている。
娘にも「ありがとう」を言える人になってほしいと思っている。