「常位胎盤早期剥離で死産(5)」からの続きになります。
死産の記事になりますので、苦手な方は読まないでください。
この記事は詳しく書くと、長すぎるね。たくさんありすぎてどうしようかと思っている。
もう10年近く経つのに忘れていないのは、それだけ自分にとって忘れられなくて、憶えていなければならないというか、それだけ強烈な出来事だったからだね。
常位胎盤早期剥離で死産(6) 初めて立って歩いた時と看護師さん達の心遣い
その後の私は集中治療室にいながら、順調に回復していった。
麻酔が完全になくなると、子宮の収縮と傷、腹の傷の痛みが襲ってきた。
痛み止めを飲んだけど、あまり効かなかった。
母乳が出てきていて、看護師さんがそれを止める薬をくれた。
赤ちゃんが死んでも、初乳が出ること、自分は母親になる体の準備はしていたんだな、と。
多分婦長さんだったんだと思うけど、とても優しくしてくださった。
血栓などができないためだったか、なるべく早く動いた方が良いとのことで、初めて体を起こした時、びっくりした。
こんなに体が重かったなんて。
その時輸血は終わっていたかどうか忘れてしまったけど、私は退院時も医師が苦笑いするくらいの貧血状態だったので、それも関係していると思う。
本当に体が思うように動かない。自分の体じゃないと思うくらいだった。
自分の体を起こして、倒れないように支えてもらい、初めて自力で立って部屋のカーテンを開けて出た時に聞こえた声が忘れられない。
そこにいた医師と看護師さんが「おお」とも「わあ」とも言えないような、声を出していた。「歩けた、歩いている、、!」っていう喜びの驚きの声が聞こえた。
生まれて初めて娘が立った時にびっくりした時のような、そんな声だった。
それでも全然歩けない。笑えるくらい歩けない。トイレまでが遠かった。点滴と共に歩いて、やっとトイレに行った。
恥ずかしながら、最初一人で入ったのに、立ち上がれなくて自分で拭けなくて、付き添いの看護婦さんにお願いしたような記憶がある。
動けるようになったことが嬉しかったけど、ものすごく情けなかったな。
そこから少しずつ歩く練習を始めた。
私は泣かなかった。看護師さんの前でも家族の前でも、全然泣かなかった。
そんな入院中いくつかの印象的な出来事があった。
私が死んだ息子の写真を撮ってもいいのかな、というのを家族に話した時、両親はやめておけ、というような感じだった。
多分そのことをカーテン越しに看護師のTさんが聞いていたのだと思う。
私に後から助言してくれた。
「私に」後悔してほしくないから、写真は撮っても良いんじゃないかと。
息子は息をしていないけど、私にとっては9か月も会いたくて仕方なかった大事な子供。
時が来たら、もうその体とも会えなくなる。
記憶なんて曖昧になるものだ、もう二度と会えなくなるのなら、目に見える写真を撮って憶えておきたかった。顔を忘れたくなかった。
そういう気持ちが私にあった。
そのことを彼女は私に我慢することないと教えてくれたんだ。
そういう助言は勇気のいることだと思う。
何より死産した私の気持ちを優先するべきと思ってくれたんだろうと思う。
私はTさんに今でも本当に感謝している。あの言葉をかけてもらわなかったら、心のどこかであの時撮っておけばと、後悔していたかもしれない。
私はその後、両親に内緒で夫と息子の写真を撮ったのだけど、それはまた別に詳しく書くことにする。
もう一つ、婦長さんだと思われる人が、泣かない私のことを我慢しすぎていると心配になったのだと思うのだけど、何とか私から涙を引き出そうと色々話しかけてくれた時があった。
ベッドに腰かけて、泣いてもいいんですよ、と。色々彼女の身の上の話も聞かせてくれた。背中をさすってくれた。
私は彼女のその気持ちが嬉しくて、少し泣いた。
涙が出た私を見て、安心されたように感じた。
まだあの時は、心が悲しいのにその状況を受け入れられなくて、ちゃんと悲しむ準備ができていなかったのだと思う。
信じられない突然の死産、初めての手術、初めての入院、何もかも初めてで非日常だったから。