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鈴のラジオでわかった方も多いと思うけど、私はマンションに住んでいる。正解には住まわせてもらっている。大きいマンションでなく、オートロック等もないところ。

昨年の夏、私は同じ階に住んでいる男の子を助けた。その子をいつから知っていたかというと、数ヶ月前に、引っ越してきましたと挨拶をしてくれた時からだ。

お母さんと一緒に菓子折りを持って、わざわざ挨拶に来てくれたんだ。

今時では、引っ越しの時に隣にも下にも挨拶してこないことはざらで、珍しい、できた人だなと思った。

だけど、見た瞬間、私には何か違和感があり、交わした言葉にもあれ?と思った。

扉を開け「いただいても良いのですか、わざわざすみません、ありがとうございます」と言っただけの初対面の私にそのお母さんが言った言葉が、

「良かったいい人で」

だったので、それが妙にひっかかった。

でも、私の気のせいだろうと、こんなことをしてくれる人は今時なかなかいないしと、頭の違和感を捨てた。

その挨拶からどれくらい経ったか忘れたが、マンションの廊下でたまたまそのお母さんと通りすがったので、「おはようございます」と挨拶した。

なのに、お母さんは私を全く見ず、目の前を通り過ぎていった。

そんなに広い廊下じゃない。私が目に入らない筈のない、聞こえない筈のない距離で挨拶したのに。

表情は何もなく、眼球は見開き遠くを見つめて、ゆらゆらと歩いて無視された。

私がその方に何か悪いことを知らない内にしたのかな?と思ってみたりしたが、わからない。

引っ越してきたとご挨拶いただいた時とはまるで別人のようだ。

それから、その時と同じように目の前や、同じ空間にいる時に何度か挨拶をしたが、同じように無視された。

まるで空気。

まるで幽霊にでもなったかのような。

私は本当に嫌になり、もうその方には挨拶しないことにした。

できるだけ会いたくもないので、その人がいるのに気がついた時は逃げるように影を潜めた。

ある時は、マンションの廊下からその人の怒号が聞こえた。

一人息子とやりあっていたり、一方的に怒鳴っていたり。

見た時はいつもひどく痩せていて、顔もだが、服の上からでも骨が浮き出ているのがわかった。

子供に怒鳴ったり怒りが溢れる気持ちは私にも良くわかる。

でも、はっきり意識して無視しているのだとわかった時から、あの最初の挨拶の時に感じた違和感に納得しかできなかった。とても残念に思った。

動きもまるで何かにとりつかれたようだ。

私が働いていた頃、狂っていった人がいた。

その人も、歩く時にそろそろゆらゆら歩き、前を見ているのかよく分からないような印象で、目の前にいる人が自分のものを盗んでいると言い出し、最後は自宅で放火騒ぎを起こし、逮捕された。国へ帰ったかは知らない。

あの人の印象と似ていると気付いていたが、私にはどうにもできなかった。

私は小学校の説明会で登校班の希望を出した時にドジをして、自分のマンションから少し遠くの班になった。

後から気付いて、変えてもらえるか世話人の方に連絡したが、希望の場所はもう人数がいっぱいで無理だと言われた。

本当に偶然だったが、そのお母さんと違う登校班になった。結果良かったと思った。

小学校で、近所のお母さんが私に「◯くんって知っている?同じマンションじゃない?」と。

聞けば、お母さんがちょっと怖いと言う。

ある日の当番の時は異常にテンションが高く、子供たち皆に声をかけまくり、ある日は息子を怒鳴りつけ、皆の前で叩いたりすると言う。

精神病じゃないかと。

私はその班の話を初めて聞いたが、やはり精神的におかしいのだなとわかった。

そうかもしれないね、と答えるしかなかった。

ある時は、私と同じ班の中のお母さんに、その方の息子が学童で暴力をふるって困っていると聞いた。

先生もその親に言っているが、全然良くならないとのことだった。暴力をふるわれるので、自分の子が学童に行きたがらず困っていると。

同じマンションなので、どうしても聞かれるし、話が耳に入る。

引っ越してきて一年経たない内に、随分近所で有名になってしまったらしい。

そして、昨夏、そのお母さんの息子を偶然助けることになった。実は1度でなく、2度助けている。

その子は娘のひとつ上の学年なのだが、鍵の仕組みが良くわからないようで、開けられなかった。

表裏のない、両面で開ける鍵だけなら問題なかっただろうけど、鍵の左右の凸凹がわからず、開かない!と玄関前で大騒ぎしたのだ。

開かないー!開かないー!もう嫌だこんな家!なんで開かないんだよー!出ていってやる!ふざけるな!うおー!開かないー!えーーん!

叫び声みたいな泣き声が、マンションの廊下から聞こえてきてね。

少し待ってみたけど、開かないようだったから、出ていって、鍵の向きを教えながら開けてあげた。

開いたら、何も言わず、すっと家に入っていった。

その1、2週間後、また夕飯の支度の時、その子の大きな叫び声が聞こえてきた。

また開かないと叫んでいる。

しかも今度はかんしゃくを起こし、叫び声の間にドン!ドン!と扉に何か投げつけたり、おそらく蹴ったりしているような激しい音まで聞こえてきた。

かなりヤバい状態だとわかったが、前も教えたのだし、少し様子をみようと数分待ってみた。が、その声と音は激しさを増すばかり。

それで、私は娘に絶対出て来るなと言って、マンションの廊下に行ってみたら、そこには狂ったように暴れるその子がいた。

私はうおー!!と叫ぶ彼の肩を掴んで、 大きな声で、「どうしたの!落ち着きなさい!」と言った。

顔は真っ赤、頭の上から水をかぶったかのように身体中汗だく、目はつり上がり充血、肩で息をしていた。

しかし、私を振り切って、「もういい!もう嫌だ!」と言って、階段を降りて行こうとした。

「どこに行くの?前もおばちゃんは鍵の開け方教えたよね?」と言ったが、「もういい!」だけ返され、いなくなった。

玄関前は物が散乱。嵐の後のようだ。

私は頭にきた。追いかけなかった。

娘がいる自分の部屋に戻った。娘が外から聞こえてきた声に怯え、私に心配そうに「ママ大丈夫?」と言った。

また鍵が開けられなかったみたい、と答え、この騒ぎは私が知るだけで二回目、どうしようか、大家さんに玄関前の惨状を写真に撮っておいて何かあったら見せようかと思って、スマホを持ってまた外に出たら、目の前にその子が立っていた。

少しだけ目の色が変わっていたので、ちょっと待っていなさいと言って、扉を閉めた。

氷水とお菓子をもってきて、その子にアレルギーがないなら食べてと言った。

たっぷりついだ水をあっという間に飲み干し、お菓子を一瞬で食べた。ひとまず熱中症にならなくてすみそうだと思った。

飲んだら落ち着いたのか、話ができるようになった。

鍵は持っているんでしょう?開けてあげるから出してと言って、ランドセルについている鍵を見て驚いた。

折れている。

鍵穴の中に無理やり入れて大暴れしたために、折ってしまったのだ。

穴の中は見えないが、中にそれが詰まって、刺さらない。

これは開かない。合鍵があっても開かない。鍵屋を呼ばなければならない。

ため息しか出ない。

「鍵が壊れたから入れないね、ほら折れてる」とその子に言うと、よくわかっていない様子。

大家さんに電話してあげるから待っていてと、私は電話をかけた。

その子によると親は8時前まで帰らないらしい。

大家さんが来るまで、その子に声をかけながら散らかしたものを片付けた。落としていた絵を見たが、心が辛いのは伝わった。

大家さんが来てくれて、私に申し訳ないと謝ってくれた。大家さんは何も悪くないのだけど。大家さんの目の表情から、私に訴えたいことが伝わってきた。

「なんで入れないの?」と言うので、鍵が壊れたから合鍵でも入れないのだと説明すると、「じゃあこんな鍵いらない!ここから投げて捨ててやる!こんな家もうやだ!狭いし!」と大家さんの前で乱暴に言ったので、そんなこと言わないの!と叱った。

親に怒られる、嫌だと言う。わかるが、仕方ない。

大家さんは私に、これ以上は迷惑はかけられない、本当にありがとうと言って、私を帰してくれた。

帰ると娘が心配そうにしていた。

その後、昔の上司に電話した。防犯関連で私が一番信頼できる頭の良い人、こういう場合、鍵穴の中に入ったものをどうすれば?というアドバイスを求めて。しかし、上司は言った。

その人がおかしい人なら、あなたが鍵を壊したとか開けられたと言ってくるから、もう充分過ぎる程やってあげたんだし、これ以上関わらない方がいい、優し過ぎるよと。

そうだった、私もかつてたくさん経験があったことを思い出した。

精神を病んで、家に誰かに入られているとか国家に狙われているとか、そういうことを言う人たちのことを。
警察とも何度か話した。110番で行くと、かけつけた警察に「あなたが犯人だ」と言う人もいるとか。

私はおかげで目が覚めて、「もうやることはない」と決めることができた。

次の日、私が風呂にいる時、その子とお父さんとが謝罪の挨拶に来た。また菓子折りを持って。

また次の日には、大家さんが果物を持ってきてくださった。

それから一度だけ、お母さんとマンションの廊下で会った時、「息子がご迷惑をおかけしてすみません」と厳しい表情で言われた。

そしてどれくらい経ったか忘れたが、引っ越しするといって、また挨拶に来た。

お母さんと息子。また菓子折りまで、いいのに。

お母さんは私の目を見て笑顔ではっきり言った。

「私が病気になってしまって、治るまで実家で暮らすことになりました」と。

私はびっくりしたと同時に偉いと思った。

自分が病気であることにちゃんと気がつけて、わざわざ私にそれを伝えてきたこと。

病気だと自覚できていることは良いことだ。治る見込みがある。

初めて来た時より痩せている。
心配と、励ましの言葉をかけた。

その時は目がまっすぐで、どれだけ、触れて励まそうかと思ったが、やっぱりできなかった。

でも、きちんと挨拶にきてくれて嬉しかった。

周りの人が知らない、彼女のきちんとしたところ。気持ちが伝わる挨拶。頑張って!と心の中で思った。

マンション内には若いお母さんが同じように、私の挨拶を平気で無視する。子供がいても平気で無視する。

もう三回も無視されれば充分。

別に丁寧に挨拶しなくていい、チワ、とか、ぺこりでもいい、小さな声でもいい、目も合わなくていいから、何故正面で挨拶があったのに返せない。

その子はどんな子に育つかな。

その子が困った時、誰が助けるのかな。

普段無視しておいて何かあれば手のひらを返す、そんなのでは困るんだよ。

見た目じゃない、服装じゃない、歳じゃない、男女じゃない、普段からの心掛け

感謝って大事だよ。