先生という存在は自分のコピーをつくりたいのか※※その後の思いを追記しました。

※20190927追記↓

※下に書いたことが、その後どうなったのか、今の私の気持ちはどうなのか、変わったところがありますので、追記したいと思います。

まず、その後の娘ですが、すっかり泣かなくなりました。やはり漢字が厳しいというのはわかっているので、そのことを不満に思っているところもあります。でも、先生のおかげで、娘の字が本当に良くなりました。気をつけることが以前よりできるようになりました。

それに、この先生の素晴らしいところは、宿題を出さない日が結構あるということです!夏休み明けの最初だけかと思っていましたが、そうでもない。もしかしたら、これはうちのクラスだけかもしれない。他のクラスにはある時もうちにはなかったので。

それで、宿題のない週末というのはとても清々しいことに、小学校に入ってから初めて気がつけました。

宿題やったの?とか、早くやりなさい!とか、そういった会話がないことの素晴らしさ!
小学になってから、宿題は毎日のようで、それが当たり前だと思っていましたが、このメリハリ!これが先生の良いところで、実に素晴らしいと思い直しました。

確かに、漢字のテストはここまで厳しいの?と思ったし、こだわりとしてはそこまで?と思い、自分の中の不良魂が思わず復活してしまったのですけど、何が何が。浅はかなのは私ですね。

先生、本当に申し訳ございませんでした。

この、ゆるさと厳しさ、両方あってこそバランスが取れている。厳しさで責め続ける人ではなかった。

その個性は最初私に疑問を突きつけましたが、今はこの担任の先生のおかげっていうのがたくさんあることに気がつきました。
先生の姿勢が、日を追うごとに私に伝わりました。
心から謝罪し、感謝したいと思います。

更に自分が感じたことは、家庭の大事さです。

自分を一つ褒めるとすれば、娘を私が追い込まなかったことが良かったのかなと思います。家でもなんで漢字100点じゃないの!って、先生の言うとおりにしなさいよ!って怒って圧迫していたら、娘は泣きながら潰れてしまったかもしれない。

娘なりに頑張ればいいのだから、できるだけでいいから、前より意識して字を書く事が大事だよ、点数も100点は嬉しいけど、それだけじゃないんだよって、私はちゃんと見ている、味方だよって言ってあげられたことが、絶対こうしなければならないっていう恐怖を緩和することになって、先生の厳しさの部分とそれが相まって、娘は怖いと泣かずに、以前より丁寧に書けるようになったのかなと思う。

どこかに自分の味方があることって、甘えだけでなく、成長を助けることにもなるのだなと思ったし、申し訳ないけど一旦先生に噛み付いてみて良かったなと思った。

私が先生を誤解したことは、本当に申し訳ないと思う。

今は、今日宿題ないんだ!って笑顔で帰ってくる娘に、良かったね!先生最高だね!って言うし、今から友達と公園に遊びに行っていい?って帰ってきてすぐ聞いてくる娘に、行っておいで!楽しんできて!って言えることがこんなに良い気持ちになるなんて、改めて先生から学んだなあと実感しているのです。

一長一短と言いますが、本当にお恥ずかしい限りです。

今、声を大にして言いたい!

先生ありがとうございます!!!

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※コメントいただいたおかげで、自分の気持ちがより整理できました。感謝です。(コメント欄も是非!)

※20190911記↓

ごめんね。朝から。

先日、保護者会がありましてね。

うちの娘のクラスは担任が交代したのです。

産休に入られました。

そして、新しい先生になりました。

その先生はご苦労されてきた方らしく、複数のお子さんのうちのお一人は、話から察するに発達障害で多動系だったとのこと。療育にも行かれていたらしい。今はもう二十歳もとうに過ぎているとのこと。

その後の教師キャリアとしては、皆と同じにできない子供たちの補助をされたりしていたとのことで、私としてはなんと頼もしい先生かと思った。

ご苦労された経験を話してくださる、その気持ちは私も良くわかるだけに、母としての悩みも理解してくださる、年配でベテランのその先生で良かったなあと思った。

その気持ちは変わらない。それは最初に書いておく。

しかし、娘はその先生になってから、帰ってきて漢字練習を泣きながらするようになった。先生がこわいと。

おそらくかなりメリハリのきいた教え方をする。偉そうに言わせてもらえば、それは別に悪いと思わない。

その怖い理由は、漢字、文字への先生個人の強烈な拘りから来ているのだと、保護者会の説明で感じた。

先生は、当たり前をきっちり馬鹿にしないでこなせ、というポリシーがあるらしい。

その馬鹿にしないでという、当たり前は、先生にとって、漢字テストでの例えば、口という字にほんの少しの隙間があっては×になってしまう。

口という口をきちんと閉じろ、隙間は許さない、きっちり書いていない、それは書こうとしていないからだ、字を馬鹿にしないで、ということらしい。

熱意はわかるが、
私はあの話だけは、うーんと思った。

それで先生は、今回テストを返したけれど、誰も100点はいませんでした、すごくすごく悪いテストが返されているはずです、と言われていて、実際娘のテストを帰宅後確認すると娘なりにものすごく気をつけて書いたというのがわかった。どの字もとても丁寧だと感じた。

漢字も間違えていない。

しかし、点数は70点台だった。

岩という字の山の右側が横の線から下にはみ出すことも×になっていた。

私は娘に言った。

こんなのはおかしい。

あなたは100点だからこんな点数気にする必要ない。

先生がいくら×をつけても、私は〇をつける。

こんな細かすぎること気にするな。

娘は、「でも、、」と言っていた。

その娘の不安を、私はこんなテストの点数なんか、先生の評価なんか要らないと言い切った。

字に気持ちが入っていた。どんな今までのテストより娘なりに美しく書いていた。私にはそれがわかる。漢字も間違えていない。

問題なんかどこにある?

先生が気にしているのは自分の拘りだと、それを人に押し付けているのだと。

書道と漢字テストは違うけれど、子供たちはいつか疑問に思うだろう。

なんで、この字で素晴らしいと評価されているのかと。

何故、ここまで細かく苦しい気持ちで文字を書かねばならないのかと。

先生に言いたいのは、その漢字の拘りはあなたそのものを表すのだということ。

たとえばその拘りが、漢字でなく、服装なら、スカート丈は1センチでもはみ出したら許さないに繋がる。

たとえばその拘りが、化粧に向くなら、ほとんど化粧っ気無しで人前に立つことなどあり得ないということに繋がる。

あなたの拘りが漢字であるだけで、別角度から見ると、あなたは相当欠けて見える。

そのことがわかるだろうか?

主張すればするほど、きつくすればするほど、あなたの欠点はこちらに伝わっている
のだが。

先生は、自分の拘りが完全にコピーされ、自分と同じになることが100点で一番素晴らしいという気持ちになるのだろうか。

私はね、娘が私の想像をはるか超えてきた時に、一番やられた!参った!超嬉しい!素晴らしい!と思うわけです。

それは、漢字のほんの一ミリもない隙間やはみ出しを、規制して生まれるようなものではないのです。

当たり前を馬鹿にしないで、って、私の当たり前と先生の当たり前は違います。

それは人それぞれ違います。

理解がある部分と、お話と、その姿がどこか一致しない。何故ですか?自分が見えていますか?

あまりの不自由さに、漢字の時私は、昔の不良時代の自分に戻ることにした。

先生のおかげで、娘はとても字を気をつけて書けるようになった。それは先生のおかげだ。感謝している。

しかし、

私は、娘の味方でありたい。たとえ先生がどんな点数をつけても、頑張ったのが、その本気が伝わったのなら、娘を手放しで褒めたいと思う。

私は漢字の先生には合わせない。誰が何と言おうが合わせない。

あなたにとって不良の親になります。