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読者の方からメールで「ギフテッド」について、私はどう考えているのかというご質問をいただきました。

この件は記事にしたことはなかったと思います。

今の私の考えをその方に向けて送りました。

同じように誰かの考えの参考の一つになるかもしれないと考え、ここにお名前を伏せて転載させていただきます。

ギフテッドについて、私の今の考え

ブログを読んでくださって、ありがとうございました。
○○さんにも非定型発達のお子さんがいらっしゃるのですね。私に共感いただいたように、私もお察し申し上げます。
そしてギフテッドについてうちの娘が当てはまるのでは?と思っていただいたことは大変光栄に感じております。

さて、ご質問のギフテッドについての私の見解ですが、おそらく記事には書いたことがないです。もしかしたら、コメントでいただいたことがあるかも?しれませんが、、HSPとかそっち系の話であったかもしれません。

ギフテッドという言葉は見たことがありましたが、正直私にしてみたら、「皆それぞれギフテッド」だと思っています。

そのギフテッドの意味をどうとるのかによって変わってくると思うのです。

「正しい知識を得られた」と書いていらっしゃいましたが、それだけ世の中の人の解釈が様々なのであれば、それはそれで発する側と受け取る側とのイメージの違いというものが溝となってできてしまうことがあるのだと考えます。

あまりそちら側に意識がいきすぎ、優れていることばかりに熱狂的になると、バランスをかいていくこともあると感じます。

○○さんのお子さんはギフテッドかもしれません。私は○○さんもギフテッドだと思います。
これだけ整った文章が書けること、それが頭の中があることはそれだけでギフテッドです。

私から見たら、娘にも足りない部分が明らかにあり、それを無視してはいけないと思っています。

ギフテッドと呼ばれる子供の中で投薬をすすめられるレベルとなると、かなり日常の社会生活では本人が苦しまれるのではないかと感じます。
他人への暴力性や、衝動性が極まってある場合は特に生きにくいと思います。

それが投薬した方が良いものなのかどうかは、実際その子と接してみないとわかりませんので割愛します。

思うに、評価というものは、自分から名乗り出るものではなく、ギフテッドと呼ばれる本物の人間は自ら言わなくても親がそう言わなくても、周りに自然と評価されていくことなのではないかと思います。

自閉症スペクトラムであるという診断が誤診なのかそうでないのかはわからないですが、そのことは私には結局そういった世界があるということを学ぶ機会をいただいたと思っています。

主治医が感じた判断はその判断で、その先生にとっては違いがないと思われたっていうことです。

そのことを敢えて疑ったりはしません。先生にとってはそう感じられたということだと思います。

そしてその指摘された部分は私が思っていたことにも当てはまっていたので、誰が判断し、誰がどんな気持ちで聞くのか、こういったものはインフルエンザのように検査でわかる(それも100パーセントでない)ものと違って、何かを診断する時、誤診と思う時、なにかのズレがそこにはあるのではないかと感じます。

私的には娘がギフテッドでは?とは思っていません。
IQが高いこと、娘を知ることの一つにはなりましたが、それ以外にも人間には大事にしなくてはならないことがたくさんあります。

最初に私は皆がギフテッドだと言いましたが、私にしてみたら毎日家事を頑張っている人や、整理整頓の得意な人、人前で緊張せずに喋れる人、どんな気候でも平静を保てる体質、そういったものだけでもギフトを持っていると思うし、悲しみの中でもがいている人が、自己葛藤しながら生きる道を模索することもギフテッドだと思います。

人に優しい笑顔を向けることや、常に勝ちたいという気持ちがあるのもギフテッドだし、いつもゆったり構えていることもギフテッドだと感じます。

そんなのはギフテッドの内に入らないというのなら、それはいつか娘がギフテッドだと人様にそれも一人でなく娘に関わった人全員に言われたり感じてもらった時なのかもしれません。

私には娘の欠点が見えています。直すべきところ、そういう性質を持っているのならこう活かした方が良いということが見えていますので、IQが高いのが素晴らしいともあながち思いませんし、それは事実として受けとめ、それはそれとして伸ばし、足りない部分を一緒に考えて諭していく、素敵な言葉で色眼鏡をつけて娘を見たいという気持ちはなく、ただそのままの娘でいいと思っています。

ギフテッドという言葉を他人に対して発信していく、発言していく時、どうしてもそこには「あなたたちとは違うけど、うちの子供にはギフトがある」という風に誤解されることの方が多いと思うし、それが意識をしていなかったとしても、どこかに「助けを求め、逃げ場を作り、特別でありたいと願う気持ち」それは誰しも持っているのですが、それが受け取る側に空気として直接伝わってしまうことがあると思います。

その言葉で救われる人はその言葉を使う時に、「自分の子はギフテッドなんだけど、あなたの子もここがギフテッドだよね」と言えるようでないと、それは他人からの称賛の言葉が自然にわき上がるような才能や存在感がない限り、ただの「振りかざしの言葉」になってしまうと感じます。

今のその子に何が必要で、何が優れているのかを、眼鏡なんかかけなくても、ただまっすぐ見つめていけばいいと思います。

私はあんまりそういう「特別な言葉」を必要としていません。

誰かに説明する時にその方がわかりやすいならば使うことはありますが、そこに飲み込まれて本質を見失ってはいけないと思っています。

苦しい時はちゃんと苦しむ、もがく時は徹底的にもがく、悲しい時は徹底的に悲しむ、その時装飾品はかえって邪魔になります。それがない方が立ち直る時間も早い。

目に見えない、数値には表せない良さ、そういうものもちゃんと評価できる、自分以外の人の素晴らしさに気が付ける、そんな人間でありたいと思います。
そうすればそういった言葉がなくても、きっと寂しくないです。

つらい時には何かにすがりたくなります。

発達障害なのか、ギフテッドなのか、子育てが大変である、どうやら人よりも大変であると感じるのは、誰だって不本意です。一緒に生活して、ともに時間を過ごして初めて大変さがわかりますよね。

他人からわかってもらえずに、自分が悪いように言われて苦しむ人も多くいると思います。人の子供が羨ましくなったり、自分を責めたり、そういったことの繰り返しで精神も体力も疲弊していきます。

もし、○○さんがそのような毎日の中に今あるなら、私もかつて思っていたようにとても一言では表せないような感情を持っていると思います。

その押しつぶされそうな感情の中で○○さんが救われるのなら、ギフテッドという言葉が必要だったのかもしれません。

その言葉は胸の中にお守りとして大切に持っておくといいと思います。○○さんがつらい時、その言葉を思い出せば、その苦しみを少しはやわらげてくれるでしょう。

もがくこと、つらさを知ること、そこには必ず人としての成長があります。苦しまない人は子供のままです。
子供のままであったとしても、それがその人の魅力にもなってきますが、大変であること自体は「貴重な生きた学び」になります。決して無駄にはなりません

どんなに遠回りしているように感じても、そこにも無駄など一切ありません。感じようとしているかしていないかの違いです。
もちろん、それは心が病の時には無理する必要などないです。後からでもいくらでも振り返り学ぶことはできますから。

私もギフテッドという言葉は素敵だと思います。
でも皆にその言葉はあてはまる。皆かけがえのない「個」、それがギフトだと思っています。

以上が、私の今のギフテッドについての個人的な考えになります。