私のホロスコープのヨッド(神の手)の先端、サビアンシンボルの「親睦夕食会」が息子が死んだ日。
私も死ぬはずだったのに、180度反対の「赤十字の看護婦」が助けてくれた。
命の恩人。
私の赤十字は、I医師とTさん達だ。
同じ医療に携わる中にも、色々な人がいる。
私を殺しかけたひどい女の看護師みたいな人もいる。あいつには二度と医療に関わって欲しくない。
私と息子が歩いて行った思い出の産院の場所が、忌まわしい場所になった。あの日のことは忘れない。行ったら発狂するかもしれない、近寄れなくなってしまったんだ。
仕事なら行けるかもしれないが、普段はもう無理。近くを通るだけでどれだけ勇気がいったか。
それでも10年近く経った今は、だいぶ意識しなくなった。
I先生、覚えていますか、あなたは頭が良すぎるほど良いから、きっと今でも私の数少ないのデータも記憶しておられると思います。
生かしてくれたこと、私と私の娘への想い、決して忘れません。娘の泣き声が聞こえた時、私は涙しました。執念の出産でした。
先生にとりあげてもらうまで、絶対諦めないのだと思っていました。
死産後、食べ物を吐くようになった時も心配し、内科と連携してくださいました。
私が新たに妊娠した時も、大事にみてくださいました。
出産のための入院の日、なんとTさんと再開した。
私が来ることを調べて知っていて、互いに手を握り合い、跳ねるくらい喜んだ。
あの時いた他の看護師さんたちはいなくなっていた。
入院生活は正直辛かった。自由がなくて。
売店に買い物へ行きたいと言ったら、若い医師に別室で叱られたな。
あなたは自分が以前どれだけ大変だったか知っているのかと。命がないかもしれないから、ここから出るなと言われて。
毎日50歩もない距離の食堂と部屋とトイレへの行き来だけ。
同室の人も食堂で会う人も不思議がった。点滴もない、ただ薬だけ飲む元気そうな私のことを。
説明するには大変気を遣った。ごまかした人もいた。
話すと皆驚くし不安になるだろう、只でさえ何かの理由があって入院している仲間。
私はあの病院の庭園が好きだった。
死産して、点滴しながらよろよろと行き、初めて感じた外の風。緑、空の色。生きていると思った。
その庭園にも行けなかった。たったの1ヶ月でも苦しかった。数ヶ月入院している人はどんなに辛いかと思った。
あの明るい、いつも笑顔の先生が一度だけ、厳しい表情をして廊下を歩いているのを見た。何かあったんだろうとわかった。
入院生活は辛かったけど、Tさんが私のことを知っていたし、たまに話すことも、絵を描くこともできたから、私は幸せなんだろうと思った。
同室の人達とはだんだん仲良くなった。私は夜、良くうなされていて、普段はない自分の大きな寝言で起きることが頻発だった、迷惑をかけたなあと思う。
入院中のシャワーは特別だった。二日に一度しか入れない。時間制限があるから、髪を乾かす時間も考えてとても慌ただしかった。
シャワーに入るとその度に思い出した。死産した時のシャワーを。怖くて、息子がいなくなった自分の腹の縦の傷も見られなかった。個室でシャワーに初めて入った時は涙しか出なかった。ザーザーいうのに、とても静かだった。
娘がお腹にいて、この子が生きて生まれるようにと、いつも願っていた。
手術日は、ある日突然変更になった。正産期に入ったらすぐにしようと決まったと。それだけ危険な出産だと思われていた。
入院中、産科のあらゆる医師が私のところに来た。
以前のことを見せてもらったが、本当に危なかった、大変でしたねと声をかけられて、やっぱり私は死んでもおかしくなかったのだと気付かされた。そして、どの先生よりI先生が好きだなと思った。
緊急帝王切開のあの日と、普通の帝王切開の雰囲気は全然違った。
先生は何故か、いつもより緊張していると感じた。
私は娘の泣き声を聞いて泣いて、後から先生も泣いていたのだと教えてくれた。「あの時は緊張したし、感動しました」、と。
丁寧に縫っておきますと言ってくださって。先生、ありがとう。あなたが今、幸せでいることを心から命をかけても願います。
娘は生まれた。
随分頭位の奥行きのある、かわいい小さな存在。元気に泣く姿に、息子の姿を重ねた。
あんなに自由がなく退屈で長いと感じた入院生活だったのに、退院を待っていたはずなのに、別れは辛かった。
先生とも、Tさんとも、もう会わないだろうとわかっていた。
Tさんは、最後にはいつの間にか私に個人的な話をしてくれるようになった。
最近付き合っていた人と別れたんだと、二股をかけられていたと、ここをもう辞めるんだと。
あの死産後の集中治療室で、私が息ができない時に、ずっと過呼吸だと思い込んでいた若い医師のことが頭に浮かんだ。
Tさんその人はやめておいて良かったよ、今は最高に辛いと思うけれど、あなたにはもっといい人がいるよと思った。
「Tさんには幸せになってもらわなきゃと、私はいつも想っているよ」と伝えた。
辞める前に、こうしてまた私に会えて本当に嬉しかったと、娘が無事に生まれて本当に良かったと、目の前で泣いてくれてね。私もボロボロ泣きながら、そっと抱き締めたんだ。
連絡先を聞こうかとも何度も思った。
だけど、私はただの一患者だし、迷惑になってはいけないからと頭で強く思って、涙の別れを終えた。Tさんの幸せを心から願った。
ただの出産に、何を泣いているんだろう?と、その時同室だった人は思っただろうか。
娘は生きて、今一生懸命やっています。私も一生懸命、母をやっています。
生かしてくれて、本当に本当にありがとうございました。
あなた方の優しさは、このご恩は、死んでも忘れません。
私とまた必ず再開し、楽しい夕食会にしましょう。
その時は息子も一緒に。
もうこの時、意味のわからないアヴェマリアを聞いた後です。
もう泣かないと思ったのに、やっぱり泣けて仕方ない。他にもお世話になった看護師さんがたくさんいます。私は忘れていません。本当に本当にありがとう。